労働とGNU宣言

GNU宣言では、職業ソフトウェア開発者の収入方法について幾つかの提案やヒントが与えられている。
実際、メンテナンスや特定業務に特化した部門でビジネスになっている。

 ただ、GNU宣言的になるには、あるソフト開発や仕事の完了に幾ら必要と推定できる状況で資金調達できることが望まれる。開発完了後フリーソフトとなるなら、事後に寄付などによって資金を回収するのは難しいといえるかもしれない。これは技術に信頼性があるか、潤沢な資金があれば開発費用を事前に調達することができるだろう。
このような状況で企業は、オープンソースを先に展開し、その成果を取り入れつつビジネスを行うところが出てきている。しかし、それはフリーではないことが多い。

 企業としては、開発したものが、技術公開されることで、次の製品の市場価格を安くしてしまわないかを心配し必ずしもフリーに賛同しないことは想像できる。GNU宣言を支持する職人的な人達の一部はソフトウェアの権利は自分が所有することで仕事を受けようとするかも知れない。

結局、開発に掛かる費用を調達できるという……重要な問題を抜きにすれば……フリーにする/オープンにする/独占したいというのは、お金が幾ら欲しいか?楽がしたいという欲望で、世間と比較した上で大きいか小さいかの違いという気がする。どの辺りの報酬が妥当だと言うのは一概に判断できず、相対的に判断するしかない。

 幸いなことに、フリー(もしくはオープン)な技術が蓄積されると、これら技術を習得する費用が下がるため、個人の学習費用や次の技術を開発するための費用も低下する。

教育・学習には資金が掛かるため、個人の学習費用が低下するという効果は影響が大きいということになる。

しかし、企業が費用を小さく見積もるほど、余分な費用は削られ、これに従事する人々に即戦力を期待するようになってくる。これらの人々は、技術習得費用を収入から転換することが難しくなってくる。よってこれらの人々は、出来るだけコストを掛けずフリーな技術を習得できる環境を望むであろうことが予測される。
フリーな技術が蓄積は、やる気のある個人にとっては、よりよい学習環境を与えるが、そうでない人とこの環境を享受できない人(デジタルデバイド(digital divide; 電子情報格差)の問題)との間ではその格差が広がるだろう。