「視聴」をテレビから切り離そう

はてなブックマークを見ていて

ITmedia ライフスタイル:「視聴」をテレビから切り離そう

というのが目にとまってつい読んでしまった。そればかりか……このなのを書いてしまった……

テレビを付けるというのは、BGMのように使い気になる話しが出たときだけ見るというのも出来る。またテレビは目覚まし代わりになる。暗い部屋がテレビの光で部屋が明るくなり、会話や音が出るので目覚めやすい。

 パソコンをチューナにしてから自分個人はテレビはほとんど見なくなった(今のテレビパソコンではないので起動に時間が掛かる)。
パソコンを付けるのが面倒だし、見たい番組というのも多くない。受動的というか習慣化すると、必要ない行動でも必要以上に行ってしまう。メールでもそうだし、Webでも然り。
ネットサーフィンは、利用目的を明確にしていない場合、どちらかというと(能動的ではあるが)雑談や衝動と同じになっていく。本来の目的からついつい横道にそれて止められなくなっていく。
(雑談は、それ自体コミュニケーションだから、その役割を否定するつもりはない)

 そういう意味では、テレビとWebやオンデマンドやゲームなどの「メディア」は、視聴時間を争っているというのは当たっている。この中にラジオはなぜか入らない。車を運転し「ながら」など主体が別の事柄に向いているからだ。重要なのは「目」であり。もっと本質的には、受け手の「思考」を獲得することにある。
「メディア」はメッセージであり、あわ良くすれば、その人の「思考」を変えてしまうと、いうと くさい。

 最近思うのは無駄な時間を、とことん無駄に使うというもの。ぶっちゃけ、思いっきり無駄に過ごすとか、何もしない、寝てしまうということ。
じっくり休んだ方がいいかもしれない。寝てしまって夢を見るのもいいかもしれない。
何かの合間には、「ながら」で行うことができるけど、「それだけ」という点で出来ることは限られている。結局、「ながら」の賢い使い方、「それだけ」の賢い使い方という「その人に合った」使い方が必要だと思う。
勉強などでも暗記だとか、楽しくなく長続きしないものは、5分して別のことをしてと「ながら」で繰り返し行うというのもいいかもしてない。

 人間は考えるサル(ちょっと賢くなったつもり)であるから、「思考」を自分の意思にあった使い方をしたいと、個人的には思ったりする。「ながら」と「ながら」の間でも無常に時間は過ぎ、「思考」は奪われていく。ゆえに、どうように「思考」するかを自分で決め求めていくのが良いのではないかと個人的には思うのである。というと、またまたくさい。

……余談だけど、都市の通勤は疲れるというのは経験している。個人的には満員電車で疲れるぐらいなら、どうでもいいテレビ番組を見るよりは、早く寝た方が疲れないのでないか?と思ってしまう。
早く起きてのんびりと、座るのがいいのではないか?
……電車で座って「テレビ」を見る? これは、周りから見られるので、恥ずかしがり屋には辛いかもしれない。普通の眼鏡と見た目の変わらないテレビ*1が売り出され。何を見ているのか分からないとしても、突然笑ったりしたら周囲の注目を浴びることになるかも……

 いや、携帯電話が出始めたときも、後ろから突然、笑いが起こったりしてドキリと驚かせられたりした。
……早く勤務地に赴き、近くの公園などでくつろぐのもいいかもしれない。

……ただ、ポータブルDVDとかは結構かさばるし、もしも電車の中で落としたりしたときのことを考えると辛いかも。せいぜい、携帯電話ぐらいの大きさがよいね。

 ああっと、それ以前に「テレビ」が家族との団欒(だんらん)になっているなら、そのことから考えなくてはならないか?

*1:普通の眼鏡と見た目の変わらないテレビ:技術的には可能。ウェアラブル・コンピュータ(服や装飾品のように身に着けるコンピュータ)などの映像出力装置のひとつと目されている。
液晶の電子シャッターなどでサングラス化(やミラーシェードに)すれば、周り視界を閉ざすことができるようになるだろう。